この寮の生い立ちについて

顧問 小笠原正明

この寮は昭和2年、1927年に創立されたものです。ことの始まりは、北海道帝国大学に新設された医学部の第1期生になるべく北大の予科に入学した 南浦邦夫氏以下4人の学生が、当時の総長佐藤昌介に熱心に働きかけたことでした。その結果、農学部教授葛西勝弥先生をリーダーとて、当時の北大の先生方 が東奔西走して資金を集め、今のクラーク会館付近のキャンパス内に、全室個室、スチーム暖房、水洗トイレという素晴らしい学生寮を建設されました。建設に 際して鹿島組、現鹿島建設の中興の祖といわれる盛岡出身の鹿島精一氏のご協力もあったとも聞いております。巌鷲寮という名前は、岩手山の別称の巌鷲山から 来たもので、日本語のローマ標記を完成させた二戸市出身の物理学者田中舘愛橘氏の命名によるものです。

葛西先生は間もなく札幌を離れ、その跡を後に北大学長となる島善鄰先生が受け継がれました。戦中戦後の非常に厳しい時代を、島先生を中心に、医学部の南浦先生、農学部の栃内吉彦先生、菊池武直先生、高橋萬右衛門先生などが力を合わせて寮を維持されました。

戦後も、札幌市の都市計画による移築、寮敷地の払い下げ、生協の独身寮との等価交換、など多事多難でありましたが、元獣医学部長の三浦四郎先生がその重責 を一身に背負って奮励・努力されました。特に、国有地の払い下げに際しましては、岩手県、岩手銀行、および鹿島建設の鹿島守之助氏のご援助をいただいたと 聞いております。この時期に、のちの旭川工専校長の三浦良一先生、理学部の石川俊夫先生、道庁の高橋武夫さんなどが寮のために活躍されたことは、昭和30年代末から40年代にかけて寮でお世話になった私などの世代がよく記憶しているところです。

その後、理学部教授の魚住悟先生が4代目の理事長として就任し、地質学鉱物学科の中心教授としての激務のかたわら、非常に綿密に辛抱強く財団会計を建て直 され、今回の改築の資金を積み上げらました。そして全面改築に際しましては、岩手県、青森県、岩手銀行その他の会社や個人の方々から補助やご寄付をいただ きました。特に岩手県北海道事務所のスタッフの方々からは、時宜を得たご忠告とご援助をたまわりました。新しい寮は、このような方々のご努力の結果として あるものです。本当に多くの方々からご援助いただきまして、心よりお礼申し上げます。

新寮の落成を機会に、これからこの寮を佐藤・新渡戸記念寮と呼ぶことにしました。財団の基本規則である寄付行為においては名称の変更はありえませんが、そ の細則にあたる「寮規則」ではこのことを明記しております。寮に人の名前をつけて呼ぶことには、少なからぬ意義があります。と申しますのも、建物は単なる 物にすぎませんが、それに人の名前がつくと、その人の持っている精神や人柄や業績がそれに付与されて、生命を持ち始めるように感じるからです。それでは、 佐藤・新渡戸記念寮にはどのような生命が吹き込まれているのでしょうか?

佐藤総長は、当時予科も合わせて2千人の学生を擁する北大で、施設寮を合わせても数百人程度の学生しか収容できないことを残念に思っていたと言われます。 つまり佐藤総長は、大学の学生は予科、本科を問わず、すべて寮で暮らすべきだと思っていたということです。それがどのような寮であったかは、わが巌鷲寮が建設されて初めて明らかになりました。それは、破れ畳に万年床という旧制高校風の寮とは全く違う、ビーソシアル、ビージェントルマンだけをルールとする文化の香り高い寮でした。


今週はじめに急逝されたわれわれの大先輩である元帯広畜産大学教授の佐藤儀平先生は、昭和16年の寮を次のように描写しておられます。

「寮舎:あの飛行機型の木造の建物。入寮の時、よく整備された舎内、ぴかぴかの廊下階段におどろいた。前庭のバラ、後ろの小川に傾斜する芝生。大輪のアゼリア。エルムの大木。その先のリンゴ園。食事。よく揃ったセンスの良い食器。モダンな炊事具。月曜朝はオートミール。月一回はスキヤキ会食。寮生の交流は まず紳士の食事をしながらという寮創設期の方々のご意志を今もしみじみと感じさせられている。現在、大学の学生食堂の粗雑さは旧軍隊以下。優雅に食事することから学生教育ができる日はいつ日本に戻るであろうか。」

このように慨嘆された佐藤儀平先生が、3月25日に新寮で開催された「開寮前夜祭」で、「これで巌鷲寮の戦後はやっと終わった」と本当に嬉しそうに話しておられました。あの笑顔をとともに、佐藤儀平先生を心からなつかしむものです。

戦前の寮は住むのに快適であっただけではありません。この寮には、新渡戸稲造をはじめとして金田一京助、照井栄三氏など開寮以来多くの学者、音楽家、画 家、政治家、軍人の訪問や滞在があり、その度に夕食会や講演会あるいは演芸会などが開催されていました。特に新渡戸稲造氏の影響は非常に大きなもので、そ の人となり、佐藤元総長と南部弁丸だしで会話したこと、食事のしかたの優雅さなどが当時の寮生の回想記に描かれています。このような訪問者の多彩さ、迎え る側の活発さなどを考えると、この寮は当時の札幌における一つの文化拠点であったことがわかります。それこそが、佐藤昌介先生と新渡戸稲造先生がこの札幌の地で実現したいと願った大学生活のあるべき姿でした。

しかし、戦争によってこのような伝統はすべて破壊されてしまいました。戦中戦後の回想禄を見ると風呂の天井が落ちたとか、スチーム暖房が止まって食堂の石 炭ストーブひとつになってしまったとか、台風でトタン屋根が飛んだなどというわびしい記述だけが目につきます。戦後、北大に赴任して一時寮で生活した三浦四郎先生は、「昔のことしか知らない私には、涙がにじむほど、くたびれ果てて見えました」と述懐しています。

しかし、このときから、この寮をささえる人たちの粘り強い本領が発揮されます。三浦四郎先生は、佐藤元総長が寮の完成を祝ったあと「これからは基本財産を 作ることだ」とおっしゃったことを想起しておられます。この言葉は大変興味ある内容を含んでいます。佐藤総長はこのとき、「大学が基本財産をもつべきだ」 という考え方を持っていたことは明らかです。佐藤総長は、アメリカの州立大学が政府から贈与された土地を運用して財政的にある程度の独立した権限を持っていたことの意味をよく理解しておられました。ご自身も札幌農学校時代から演習林という形で北海道大学が基本財産を持つことに腐心しておられました。国立大 学が自前の土地を大量に持つことの是非は別にして、明治大正期の帝国大学のリーダーが自主的な財源を持とうとしたことは、本当にユニークなことだと思います。

いずれにせよ三浦四郎先生は、この佐藤総長の言葉を肝に命じて、ご自身を「銭ゲバ」とれるほど、資金集めに奔走されました。そして、ついに敷地の払 い下げを受け、テナント収入のある寮の建物を取得されて、今日の礎を築きました。財団法人巌鷲寮は、設立73年にして、目に見える形の基本財産を持つに至りました。

このように、寮の歴史を振り返りますと、まず、志があり、その志を世代から世代に引き継ついで実現しようとする息の長い意志の力があることがわかります。 20世紀は激動の時代ではありましたが、この志と意志の力は崩れることはありませんでした。新しい寮の煉瓦壁を見ますと、自分の上に次の煉瓦がつまれるはずだと信じて、ご自身が煉瓦となった多くの方々の姿を見る思いがして、感慨を禁じえません。このような若者を育てるという志が、札幌の地を越え、岩手の地 を越え、ついには国境を越えることを切に願うものであります。

1999年5月22日
新巌鷲寮「佐藤・新渡戸記念寮」
落成祝賀会(ホテルロイトン札幌)において

佐藤・新渡戸記念寮にゆかりの人々

佐藤昌介

岩手県花巻市の出身。東京英語学校から札幌農学校に進みその1期生となる。クラーク博士から直接薫陶を受け、有名な1・2期生の間で長兄的な存在として敬愛された。初代北大総長。札幌農学校校長就任より39年もの間トップの座にあって北大の発展のために尽くした。

新渡戸稲造

盛岡市出身。札幌農学校2期生。ジョンズ・ホプキンス大学などに留学したあと母校の教授となり、佐藤昌介を助けて活躍し、札幌農学校に「新渡戸稲 造」時代を作る。その後、第一高等学校校長、東大教授、京大教授、国際連盟事務次長などを務める。札幌時代に恵まれない子供たちのためにボランティアで始 めた遠友夜学校は第2次大戦中に閉鎖されるまで続き、多くの人々に感謝された。

葛西勝彌

盛岡市出身。東大農学部を卒業して北大農学部教授となる。時の総長佐藤昌介に委嘱されて1927年に巌鷲寮を建設。現在の寮の基礎を築く。財団法人巌鷲寮(1929年設立)の初代理事長。日本獣医学会副会長。



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